フィガロの


 昔、飢えて死んだ獏がいた。

 もう随分前の話だ。そのとき、まだウィリアムという名前ではなかった筈だが、当時に名乗っていた名前は既に忘れてしまっていた。ただ問題の獏の名E前は覚えている。
 男の名前はフィガロと言った。

「彼女とは、オペラ座で出会ったんだ。フィガロの結婚を見てた」
 獏ののろけ話を聞くなど、酷く珍しい体験だったので、よく覚えている。フィガロと名乗った男は、聞きもしないのに、その人間の女のことをよく話した。
「フィガロの結婚か、どういった話だったかな」
「話の内容は、どうだっていいんだ」
 ウィリアムにとっては、その女のことこそ、どうだっていいのだが言っても通じまいと予感する。男は正常な思考能力を保持しているとは言い難かった。
「私は、そろそろ帰らせてもらうよ。仕事の時間なんだ」
 懐中時計を取り出して、言うとフィガロは名残惜しそうな顔をする。まだ、話し足りないらしい。呆れたものだ。
「じゃあ、また今夜、来てくれよ。いいだろう?」
 立ち去ろうとするウィリアムの袖を掴んで、男が乞う。冗談ではない、という風にウィリアムは眉を上げた。今日の散歩を邪魔しただけでは飽き足らず、明日も来いとは図々しい。
「運が良ければ、また会えるだろう」
 縋る手を振り払って、ウィリアムは歩き出す。他人の夢を歩いて、自らの体に戻る。夢を散歩するのは、体を休ませるのにいい。瞼を開けると、仕事に行く時間だった。

 それから暫く、男のことなど忘れていたが、別れ際の自分の言葉を借りるならば、運が良かったのだろう。
「フィガロ、だったか。フィガロの結婚の」
 いつもの通り、夢を渡り歩いていると、知った顔が立っていた。ただ、以前と違って、弱っている。
「そう、フィガロさ。彼女とはオペラ座で……」
「それは以前に聞いた」
 彼は変わった夢の中にいた。いや、突飛だという訳ではなくて、むしろ普通すぎるとでも言うべきか。何の変哲もない部屋だ。ヴィクトリア調の壁紙に、鏡台と椅子がぽつりと置いてある。
「随分と狭い夢だな。夢の残滓といった方がいい。もう閉じるばかりだ」
 良い夢とも悪い夢とも言えない。感情の匂いが消えてしまっていた。夢の主は、とうに夢の中にはいないのだろう。それなのに夢が残っているのは、そこに獏がいるからに他ならない。
「家主のいない夢を、いつまでも支えきれないだろう。夢を移らんと潰れるぞ」
 中身のない夢を見回して、ウィリアムが忠告すると、いいんだ、とフィガロは力無く言った。立っている元気もないのか、主のない鏡台に背を預ける。
「……食べていないのか。死にたくなければ、他所に移って食べることだ」
 そう言ってやっても、いいんだ、と繰り返す男をウィリアムは興味深く眺めた。どうもフィガロは、此処で死ぬつもりらしい。
「離れられない理由でもあるのか」
「簡単なことさ。俺が離れたら、この夢が潰れちゃうから」
 息を切らせながらの言葉に、ウィリアムは顔を顰める。こんな夢の抜け殻を維持するために、必死になっている男が理解できない。
「もう此処にしか、彼女は残っていないから」
 フィガロは苦しげに眼を閉じる。オペラ座の彼女は死んだらしい。獏と人間では寿命が違う。無理からぬことだ、とウィリアムは嘆息する。
「お前は、まるで愚かだな。賢いとは言えない」
 恋という感情をウィリアムは知らない。恋をする獏がいないとは思わないが、それにしたって人間に恋をするなんて。瞬きほどの時間しか持たない者に心を寄せるなど、まともとは思えなかった。
「なあ、獏は夢を見ないから分からないけど、多分、夢ってこういうものなんだと思うよ」
 恋は夢に似てるんだと思う、とフィガロは呟く。覚めたくない、と言う。
「俺、次は人間に生まれたいと思う」
「確かに、夢見がちのようだ」
 それからフィガロは、回らなくなっていく舌で彼女の自慢話をした。
 彼女との出会い、初めての逢引き、嬉しかった彼女の言葉、愛らしい仕草、指の温度、他愛の無い喧嘩、結婚したかったということ。
 ウィリアムは、隣り合った夢から、黙ってそれを聞いていた。彼が喋らなくなるまで。

 昔、恋で死んだ獏がいた。
 

fin.


2008.07.22 修正
2008.05.01